「おい、金持ってんだろ?早くだせよ...」
閑静な路地裏、人目のとどかない平穏な... とは決して言い難い街の一角にあるそこに響く、ドスの効いた不穏な低い声。
あたりには大量の魔剤の缶が捨てられており、カラカラという音を立てながら転がっている。
その空き缶が転がる床には一面の吐き捨てられたガムや汚物に濡れ、所々得体の知れない液体が漂っていた。
いくら治安が低俗と言っても、媚びた声で、獣性を秘めた下郎どもを巧みに誘惑する、堕落を体現したかのような娼婦や、射幸心を煽ることだけがそのレゾン・デートルであるかのように瞬く目障りなネオンライトもそこにはない。
しかしそこでは、そのようなものなど肩を並べることすら敵わない出来事が行われようとしていた。
「ザイゴンさん、牛山のヤツぜってえウソついてますよ!」
「オレちゃんと聞きましたよ!こいつが学校で、新作の魔剤戦記666を買うのが楽しみだって言ってるところ!」
学生服を纏った熊のように大柄な男が、同じく学生服を纏った小柄な少年を恫喝している。
どうやら、取り巻きたちがザイゴンと呼ばれた大男を囲うように立っているのを見ると、カツアゲのようだ。
「剤吾さん!ほ、ほんとに持っていませんって!ぼくもうこれから家に帰るところで...」
牛山と呼ばれた気弱そうな少年が、路地裏の汚濁した壁に小さな背を寄せて縮こまる。
「なぁ、痛い目見たくないんだったら、あんまり生意気なこと言わねェ方がいいぞ?あん?」
「そうだ!その価値のない命が惜しいなら、今すぐ地面に頭つけて泣け!」
ザイゴンと呼ばれた大柄な学生服の男が、大蛇の如き太い腕を不意に華奢な少年の胸ぐらに伸ばすと、掴み上げた。
「ほ、本当は持ってます... だから...」
「お、お願いです... これしかありません... どうか見逃してください...」
牛山が声を震わせながら、弁解がましくポケットから1000円札を取り出し、両手でぷるぷるとなりながら差し出している。
「お、こいつ金持ってるみたいですよ!」
「ちっ、たったの1000円かよ!」
「まぁ、これであと5本は魔剤飲めるじゃないですか!」
取り巻きたちが次々と喚き立てる。
「おい、お前財布はどうしたよ。まさかこれで全額ってことはねぇだろ。カバンにも入ってんだろうが...」
1000円札をひったくるように取り上げると、ザイゴンはなおも少年に詰め寄る。
その途端、おどおどと鞄を自分の後ろに隠そうとした牛山を見て、ザイゴンの苛立ちが増幅する。
「嘘つきに続いて、女々しいことしやがってよ!」
直後、牛山が頭を押し付けられている、路地裏の壁にぽっかりと大きな孔が開き、鮮やかに焼けついた紅から、ちりちりと不快なノイズと煙を発していた。
「あんまりオレをイラつかせると、骨が数本逝くことになるが、いいんだろうなぁ、あん?」
ザイゴンが牛山の肋骨のあたりに拳を突き立て、グリグリと押し付ける。
ザイゴンの右腕と拳が俄に緋色のオーラを纏い出したかと思うと、冷え切った路地裏の空間の中、そこだけを異様な熱気が包み、ザイゴンの拳と牛山の学生服の胸元のあたりに蜃気楼が揺らめいている。
空気が震える。
「わかってるよな? オレが、”魔素”の器だってことくらいなぁ?」
「や、やめてくださいっ...!」
「こいつ、必死になって命乞いしてますよ!」
「最初から素直に金でも出せば、こうはならなかったのに、残念でちゅね〜」
取り巻きのガラの悪い男たちが、必死になって震えながら謝罪をする牛山に、笑いながら次々に罵倒の言葉を牛山に浴びせかける。
「お前が死んだところで、学校の誰も悲しまねぇんだよ!」
「おう、その牛みてーなアホ面を今日から見なくていい思うとせいせいするぜ!」
「ザイゴンさんの糧になっちまえよ!」
得意げに囃し立てる取り巻きたちの輪の中には、体格が2まわりほども違う男が2人。
190cmの、”殺意”が鈍器のように襲いかかり、華奢な牛山の肋を、これから殺す獲物で戯れる残酷な獣のようにグリグリと抉るように押し付けている。
「気に入らねぇな... あ?」
「なんで、”そんなん”で済んでんだよ...」
突如ザイゴンが怪訝そうに眉を顰めて問う。
その言葉を受け、取り巻きたちも異変に勘づいたのか、咄嗟にその表情が不安げなものへと変化する。
「おかしいだろうが。オレがいつもこうして、”魔素”を纏わせた拳を押し付けたヤツらは、痛みで真っ先に悲鳴をあげて泣き喚いてたじゃねぇか。」
不機嫌さがより一段と激しくなっているのは、ザイゴンの腕を見れば容易にみて取れた。
元より大木のような太さの腕に、鎖状の赤い血管が浮き出し、薄暗い露地裏にあって煌々と輝き、取り巻きたちにとっても、まだ一度もみたことがないほどに脈撃っている。
「お、おい!どうして他の奴らみたいになかねぇんだよ!おい!」
「どうなってんだよ!キモいやつだな!学校でもお前ウジウジしててきめーんだよ!牛だけによ!ほら、いつもみたいにモーモー泣けよ!」
先ほどの愉悦に満ちた、嗜虐の嗤い声とは打って変わって、畏怖の表情が手下たちに一様に貼り付いている。
罵声を浴びせ続けるものの、その声からは余裕が失せている。
「やっぱりテメェは顔すら見たくねぇな!
その牛みてーな面見てるとイライラすんだよ!牛は黙って悪魔に捧げられとけや!」
突如、激昂したザイゴンが鞄をひったくると、右手を振り上げる。
「おい!やべぇぞ!ザイゴンさん、やる気だぞ!」
「逃げろ!」
取り巻きたちが、一目散に路地裏の狭い出口に駆け出して殺到する。
刹那、その剛腕を縦横無尽にめぐる鎖状の血管が、何か歪な音を立てて弾けた。真紅の閃光が、硬く閉じられた拳より漏れい出て四散し、路地裏の備え付けの悪いガラクタたちが震えるほどの振動が巻き起こり、エネルギーが拳から放たれた。
凄まじい轟音が轟く。
先ほどまで、彼の血管と拳より発せられていた閃光により眩いほどの明るさに満ちていた路地裏が、やがて再び静寂に包まれる。
拳からはぷすぷすと煙が燻っており、そこから蒸気のようなものが発せられる。
「はぁ... 殺しちまったかもな。またやっちまった。」
まぁいい、牛山が素直に金を出さないのが全ての元凶だ。
牛は供物であり、悪魔はそれを喰らうもの。
その運命は、聖書の時代から変わっていない...
そしてそれは、永遠に変わることもない...
ザイゴンは、きっと今頃は焼け焦げてミディアムステーキのようになっているであろう彼の遺体を蹴飛ばすと、カバンに手を伸ばす。
財布が入っているであろうカバンまでは殺っちまってないはずだ。
...?
突如として感じる違和感。
なぜ、骸を蹴り飛ばしても動かない?
確かな感触を持って、振動が、もはやモノと化したであろう”ソレ”を蹴った己の足に跳ね返る。
どういうことだ...?
常軌を逸した出来事に頭の整理が追いつく間もなく、凄まじい悪寒が背筋を駆け巡る。
感じる視線。何か、こう、捕食者が向けるような...
目を向けた先には、牛山の骸...
いや、無傷の牛山が、蛍光色に光る翡翠のオーラを纏いながら、こちらを睨みつけていた。
「お前はボクの... いや、オレの琴線に触れた」